2013年11月6日、フィリピンを襲ったスーパー台風ヨランダは、マニラから飛行機で2時間のレイテ島を襲い、10,000人とも言われる人々が亡くなった。
テレビで見たレイテ島の光景は、3年前に東日本大震災の時に見たものと同じ衝撃を私に与えた。
昨年8月から弊社スタッフになった、フィリピン出身のクリスに私たちが何か出来ることがあるか、レイテ島の状況はどうなのかを聞いた。
もちろん、まだ情報は少なかったのだが、その日から医療支援の可能性を探ることにした。
遡ること3年。
2011年4月に私たちはMission Vision Van
というプロジェクトを実施した。
眼科診療バスをマイアミから借りて空輸し、岩手県と宮城県での眼科診療を支援した。
毎日違う被災地へ薬と診察機器とスタッフを乗せて訪れ、延べ3,500名の方々へ眼科診療を届けることが出来た。
活動には多くの方々の支援や連携があり、このプロジェクトに関わることが出来たことは、本当に光栄なことと思う。
眼科診療は、直接命に関わる医療ではないが、被災後、急性期医療から慢性期医療に移行した頃には、必ず必要とされる医療である。
多くの方が、眼鏡やコンタクトレンズ、目薬を失い、生活に大きな不便が生じる。
加えて、感染症や、ドライアイや粉塵による目の炎症なども起こる。
フィリピンでも、2ヶ月後には、きっと眼科医療が必要になるだろう。
日本には、今では東日本大震災の支援復興予算で作った日本製ビジョンバンがあり、このバスを使って支援の輪がつながれば、こんなに嬉しいことはない。
その可能性について、数人の先生にお話を伺いながら、11月を過ごした。
12月になって、日本眼科医会会長の高野繁先生よりお声がけがあり、レイテ島への支援を検討する会議に参加させて頂いた。
バスを送るのか、送らないのかというディスカッションより前に、フィリピンの現地の医療情報があまり入っていないこともあり、まずはお正月に現地を訪ねることになった。
年が明けてすぐ1月3日からフィリピンのマニラおよびレイテ島を訪ね、現地の状況を確認した。
1月3日出発の日、日本眼科医会 高野繁会長と
マニラでは、比 保健省や日本大使館との会議で情報を収集し、レイテ島では、被災地の状況を目の当たりにした。
レイテ島では、眼科医が1名しか残っておらず、国際支援でも眼科医師団は来ておらず、この2ヶ月眼科診療は実施されていないことが分かった。
視察の3日間で、高野先生をはじめ、参加した先生方、私たちも、日本製ビジョンバンの必要性を確信した。
帰国して、すぐ準備に入った。
ビジョンバンの日本からの輸出手続き、フィリピンへの輸入手続きは、混乱を極めた。
その作業をまとめるだけで1冊の本が書けそうなほどの事件があったので、ここでは割愛するが、、、なんとか、2月17日、ビジョンバンはレイテ島へ到着し、3月1日までの12日間の活動を実施した。
私も2日間だけ現地での活動に参加した。
1日200名もの患者さんが訪れ、みんなでクタクタになったが、現地のドクターの笑顔や、患者様の笑顔に囲まれて、疲れもこれまでの苦労も吹き飛んだ。
短い期間だったが、眼科医療とともに、災害で大きなショックを受けた方々に少しの勇気と、次のステップのきっかけになっていたら嬉しい。
ビジョンバンとPhilippine Academy of Ophthalmology の会長のハーベイ先生(右)、
レイテ島の眼科医 リム先生(左から3人目)、アメリア先生(左から6人目)
2月24-25日に活動に参加した
帰国後、この活動は様々な表彰を受け、タクロバン市長、比 保健らメスキュード医療安全基金、そして、6月に開催されたASEANでは、日本が実施した保険分野の貢献の一環として、この活動が報告されたのだという。
私たちは、今、未来へ活動をつなげるよう、また、この活動を一緒にしてくださった方への感謝の気持ちをこめて、報告書と報告ビデオをまとめている。
また、レイテ島での12日間でおよそ2,000名のカルテの解析も進めているので、またこの報告も改めてさせて頂ければと思う。
ところで、今回、フィリピンで多くの女性の眼科医の先生と仕事を共にした。
夜遅くまでの会議に出席している彼女たちに、「お子さんのご飯は作って来たの?」 と聞いたところ、キョトンとした顔で、「メイドとシェフがいるでしょ」 と当然のように言われた。
女性の社会進出は、フィリピンは世界第4位、アジアで1位!(日本は2009年度時点では、アジア最下位!)
私も、女性の社会進出には微力ながら貢献してきたと思うけれど、もっともっと社会を変えるために頑張らないといけない!
フィリピンとの交流を通して痛感している!
株式会社メディプロデュース
代表取締役 久保田 恵里